京都へ、江戸へ ~人の夢を運んだ街道~

更新日:2024年09月02日

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近江は、湖国といわれるとともに、古来、道の国でもありました。
京の都へ続く天下の要所であり、「近江を制する者は天下を制す」とまで言われたのです。その中でも中心となったのが中山道と朝鮮人街道です。

中山道と朝鮮人街道の道しるべ図

道しるべ

中山道

東京「日本橋」から京都の「三条」まで、69宿、約130里(533.9キロメートル)をつなぐ中山道。江戸を起点とする五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の一つで、東海道とともに日本の主要道路として多くの農産物や加工品が流通しました。琵琶湖に寄り添う近江の中山道は、その中でも穏やかで歩きやすい区間だったようです。

近江中山道彦根の宿場

高宮宿

  • 江戸より第六十四宿、百十九里十六町(約474キロメートル)
  • 京へ十六里六町(約64キロメートル)

鳥居本宿から約6キロメートル。その間、「芭蕉の昼寝塚」や万葉集に登場する烏龍山と芹川など、古道を歩くにふさわしい歴史を語ってくれます。高宮宿は、いまも多賀大社への大鳥居をシンボルとして、江戸期栄えた宿場町としての名残あるウダツや袖壁のある商屋や民家が連なりを見せています。

鳥居本宿

  • 江戸より第六十三宿、百十七里三十四町(約468キロメートル)
  • 京へ十七里二十四町(約70キロメートル)

鳥居本宿は、中山道と朝鮮人街道が合流する地点です。この一帯には、当地の名産・鳥居本雨合羽の形をした看板を吊り下げた家や、「近江名所図絵」にも描かれた「赤玉神教丸」を製造・販売する店舗の江戸時代の建物など、昔ながらの屋敷が何軒も残っています。鳥居本を抜けると中山道は山道を登り、摺針峠を越えます。峠には「望湖堂」という茶屋がありました。ここからの琵琶湖側への眺めは絶景で、参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節も立ち寄って休息を取りました。

朝鮮人街道

天正年間に織田信長が開いた下(浜)街道を、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が京都上洛時に用い、天下支配の吉道としました。後に、朝鮮人通信使が江戸へ向かう道となり、朝鮮人街道と呼ばれるようになりました。慶長12年(1607)から文化8年(1811)までの約200年間に亘って12回朝鮮通信使が来日したうち11回が朝鮮人街道を使ったといわれています。中山道よりも湖岸寄りのこの朝鮮人街道は、旧中山道野洲の行畑を起点に、近江八幡、安土、彦根を経由して、先の旧中山道鳥居本宿でふたたび中山道と合流する。その距離四十一キロメートルの道のりです。

彦根城

江戸時代、中山道と彦根城下へと結ぶ道は、彦根道といわれ中山道鳥居本宿南部(現百々)から分岐し佐和山の切通峠(現在の佐和山トンネル付近)を越え城下へ、また、中山道高宮宿北部(現大堀町)から分岐し七曲がり、橋向町、河原町を通り城下に入る二つの経路がありました。

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