彦根の城下町

更新日:2019年08月30日

城下町の構造

 彦根の城下町は、大規模な土木工事によって計画的に造られた町です。計画当初、城下は多くの渕(ふち)や沼のある湿潤な土地が広がっていました。そのため、松原内湖に注いでいた芹川(善利(せり)川)を約2キロメートルにわたって付け替えて一帯の排水を良くし、琵琶湖に直流させました。また、現在の尾末(おすえ)町にあった尾末山を全山切り崩して、周辺の低地を埋め立てたと伝えています。こうした大土木工事により、城下町の計画的な地割が可能となったのです。

 完成した彦根の城下町は、3重の堀によって4つに区画されていました。内堀の内側の第一郭(かく)は、天守を中心として各櫓(やぐら)に囲まれた丘陵部分と藩庁である表御殿(おもてごてん)(現在の彦根城博物館)などからなっています。内堀と中掘に囲まれた第二郭は、藩主の下屋敷である槻(けやき)御殿(現在の玄宮(げんきゅう)園・楽々園)と家老など千石以上の重臣の邸宅が広がっていました。中掘と外堀の間の第三郭は「内町(うちまち)」と称して武家屋敷と町屋が、また外堀の外の第四郭である「外町(とまち)」には商工人の住居と足軽の組屋敷がありました。内町・外町ともに武士・町人あわせて居住していますが、居住地は明確に区分されており、魚屋町(うおやまち)・桶屋町(おけやまち)・職人町など職業による分化配置が見られました。

 彦根藩の足軽組は、「中藪(なかやぶ)組」「善利(せり)組」「切通上(きりとおしかみ)組」「切通下(きりとおししも)組」「大雲寺(だいうんじ)組」「北組」「中組」で構成されていましたが、第四郭つまり城下町のもっとも外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて、彦根城とその城下町を守備する役割も担っていたのです。

彦根城下町割図の写真

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