彦根城の特徴

更新日:2019年08月30日

1 ふたつの時代の特徴を持つ城

 中世まで、武士は館〔やかた〕に住んでいましたが、近くに山があれば城を築き、戦の備えをしました。この山の地形を利用して築かれた城が「山城」です。刀や槍で戦をしていた時代は、城のまわりに塀を作り、人が跳び越せない程度の堀をめぐらせば、戦の備えになっていました。
 戦国時代の半ばに日本に鉄砲が伝わると、戦の方法も変わってきます。集団戦になり、弾丸を防ぎつつ鉄砲を利用できる構えが必要になりました。弓矢よりも射程距離の長い鉄砲の弾丸を防ぐため堀の幅が広がり、建物の壁は弾丸が通らないよう工夫され、鉄砲を構える挟間〔さま〕(=銃眼)が設けられました。櫓には早く敵を見つけるための望楼〔ぼうろ〕(=ものみやぐら)が作られました。城の築き方も、見通しのきく小高い山(丘)に築かれた「平山城」や、平地に築かれた「平城」にかわっていき、天守は城主の権威をあらわすように壮大なものになっていきました。彦根城は平山城のひとつです。
 彦根城は、山すそを断崖にして山を登りにくくしていること、天秤櫓の下、西の丸と出郭の間とに空堀(水のない堀)をおいていること、山のまわりに5本ある竪堀(注釈)などは中世的なところで、防弾のため天守の壁の中に栗石をつめる工夫をしていることや、簡単にはのぼれないような高い石垣などは、近世の鉄砲時代にふさわしいものになっています。
 彦根城は、「刀や槍・弓矢で戦をした中世」と、「鉄砲での戦に備えた近世」のふたつの時代の城の特色を持っている城なのです。

(注釈)竪堀…敵の侵入を阻むために山の斜面に掘られた空堀

鉄砲挟間

鉄砲挟間の写真

敵の攻撃に、鉄砲で防戦するための挟間(銃眼)。外からは見えないようにしっくい壁が塗りこまれています。
戦のときは、壁を突き破って使用します。

天守北側附櫓の壁の構造

壁の構造イラスト

両側から壁でつつまれ、外からはわかりませんが、中央は防弾のため栗石〔くりいし〕が約20センチメートルにつめられているのが一部に残っています。

2 古材の利用

 急いで城を築くために、当時は、周辺の城などの石材や木材を利用する方法がよく用いられました。彦根城も、「西国をおさえる」という役目のために築城が急がれていました。
 彦根城の天守は、現在の大津市浜大津あたりにあったとされる大津城の天守が移されたものです。
 彦根城には、天守のほかに櫓、馬屋や上級藩士の長屋門などが残されており、佐和山城や、古城となっていた大津城・長浜城・安土城などの石垣の石から櫓や城門までがその建築に利用されたと伝えられています。このことを裏付ける痕跡が、昭和30年代に行われた修理工事によって確認されています。

3 芹川は第1防御線

 善利(芹)川は、もともと現在の河原三丁目付近より中央町の長松院あたりで折れて、松原内湖へと注いでいました。それを城下町づくりのために川筋を城下の南に曲げ、西へまっすぐ流れるようにして琵琶湖へと導きました。
 善利川が付けかえられたあと、三重の堀がつくられました。天守の築かれた本丸を第一郭として、内堀と中堀の間を第二郭、中堀と外堀の間を第三郭と位置づけられ、北進してくる外敵に対し善利川を第一次防御線とすることで、幾重にもわたる防御網となったのです。
 芹川の堤防に沿って続くケヤキ並木は、川を付け替えた際、川岸を守るために植えられたもので、今も樹齢400年のケヤキが並んでいます。

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