42 山崎山城跡

更新日:2023年07月03日

山崎山城の位置

 山崎山城跡のある山崎山は、彦根市南部の湖岸近くに所在する荒神山の南東側に位置する比高50メートル程度の小さな独立丘陵です。
 石垣や堀切等の遺構が残る山頂からは、眼下に織田信長が岐阜から安土を経て京へ登る道として整備した「下街道」(巡礼街道)を見下ろすことができ、周囲を宇曽川が蛇行しながら緩やかに琵琶湖に注いでいます。また、遙か北方には彦根山や佐和山を、南方には安土山を望むことができます。

山頂から東方面の鈴鹿山脈を望む風景写真
山頂から北方面の彦根城、佐和山を望む風景写真
山頂から南方面の安土山を望む風景写真
山崎山城跡位置図

山崎山城の特徴

 山崎山城跡は発掘調査の結果、尾根の中央に大きな堀切を設け、その東側半分(東西約90メートル、南北約20メートル)を城域とする小規模ながら、石垣を設けた戦国期の城であることが分かりました。

 石垣は、西側斜面と、掘切に面した尾根のもっとも高い位置を中心に2~3段残されていました。掘切に面した高所は石垣が方形に巡っており、入口を固める桝形であったと考えられます。石垣は、いずれも自然石を粗割にした石材を横位に置き、目地が通るように積み上げ、隙間には間詰石が裏面には栗石が詰められていました。この石垣は、郭の高低差や栗石の残存状況から、本来は2.5メートル程度の高さであったと考えられます。

山崎山城跡遺構平面図

堀切

 堀切は、敵の侵入を防ぐため設けられた山の斜面に沿って縦に掘った空堀です。この竪堀は、約2メートルと比較的浅いものですが、尾根最高部の第一郭の石垣との高低差が約4メートルあり、少ない労力で防御力を高められるよう、この山の地形特性を最大に生かしていました。

山崎山城跡、上空から見た堀切の写真

上空から見た堀切

山崎山城跡、北側堀切の石垣検出状況の写真

北側堀切の石垣検出状況

石垣

山崎山城跡の石垣の写真

 石垣は、いずれも自然石を粗割にした石材を横に置き、目地が通るように積み上げて隙間には間詰石が、裏面には栗石が詰められていました。

枡形遺構

山崎山城跡の枡形の写真

 尾根の最高部に位置し、方形に巡る石垣が2~3段残されています。
 この遺構は、枡のような四角い形状から、入口を守る「枡形」ではないかと考えられており、築城時には櫓が建っていた可能性もあります。

築城者と築城時期

 山崎山城に関する史料は極めて少ないため、築城者は誰なのかは正確には分かりませんが、近江守護の佐々木六角氏配下の在地領主で、永禄11年(1568)から始まった織田信長の近江侵攻に伴い信長に従った山崎氏が、信長の命により築いたと考えられます。

 この城は、平成6年度に本市教育委員会が行いました発掘調査により、小規模ながらも石垣を設けた城であったことが分かりました。この石垣は、安土城の石垣に類似していることから、築城時期は安土城が築かれた天正年間(1573~1592)の初期頃と推定されます。

 なお、山崎氏は、豊臣秀吉の時代には摂津の三田(現在の兵庫県三田市)に移封されており、この時期に廃城となったものと考えられ、山崎山城が城として機能していたのは、短期間であったと推測されます。

山崎源太左衛門賢家[やまざきげんたざえもんかたいえ]の動行

永禄6年(1563)

観音寺騒動を機に六角氏と離反し浅井氏に付く。

永禄11年(1568)

観音寺城落城後、織田信長に従い姉川の合戦の先陣を務める。

天正10年(1582)

甲州攻め後、安土城への帰途に山崎山城にて信長に一献進上。信長より摂津国三田、丹波国氷山で23,900石賜る。本能寺の変後、秀吉配下に入る。

城跡案内図

山崎山城跡案内図

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