資料紹介 朝鮮通信使関係資料

更新日:2024年09月02日

HP番号: 4694

資料紹介 朝鮮通信使関係資料

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1 伝朝鮮高官像(でんちょうせんこうかんぞう)

彦根市指定文化財

市指定

 昭和60年8月1日

所在地

 本町二丁目

所有者

 宗安寺

時代

 江戸時代

朝鮮の高官像のイメージ画像

朝鮮通信使とは、朝鮮国王が日本の武家政権に対して派遣した外交使節団のことです。朝鮮通信使は江戸時代に12回来日しました。このうち朝鮮と江戸との間を往復したのが10回あり、いずれも彦根は宿泊地になりました。宗安寺は、朝鮮通信使の彦根での宿泊所の一つで、高官の宿泊所に指定されていました。

朝鮮の高官像とされるこの画像は、朝鮮通信使によってもたらされたと伝えられています。紗帽(さぼう。うすぎぬで作られた帽子)をかぶり、朱色の袍(ほう。礼服)を身におおい、二羽の白鷺(しらさぎ)の文様とみられる胸背(きょうはい。刺繍の装飾)と鼈甲(べっこう)の帯をつけており、この種の肖像画として貴重なものです。

2 朝鮮人御馳走御用御入用積御作事方万仕様帳(ちょうせんじんごちそうごようごにゅうようつもりおさくじがたよろずしようちょう)

所在地

 本町二丁目

所有者

 宗安寺

時代

 宝暦13年(1763)

朝鮮人御馳走御用御入用積御作事方万仕様帳の写真

写真の帳簿は、1の画像と同じく朝鮮通信使の彦根での宿泊所の一つとなった宗安寺に残っています。宝暦14年(1764)の11回目の来日時に備えて作成されました。

内容は、前回の延享5年(1748)に使節団を彦根に迎えたときの諸施設の作事(建物の建築や修理)・経費についての届書、および今回の使節団にともなって行われる施設の作事費用の見積もりです。この史料により朝鮮からの使節団を迎えるにあたり宿泊施設がどのようにととのえられたかを知ることができます。

本史料は、『新修彦根市史』第6巻(史料編 近世1)324ページから330ページの第204号史料として、一部が掲載されています。

3 江国寺扁額(こうこくじへんがく)

所在地

 本町二丁目

所有者

 江国寺

時代

 明暦元年(1655)

「江国寺扁額」の写真

江国寺は、延享5年(1748)の朝鮮通信使に関する史料(2の史料)によると、使節団の彦根滞在時に長老宿になっています。この寺には明暦元年(1655)の朝鮮通信使による文字が扁額として残されています。「江国寺」と大きく書かれた文字の左側に「朝鮮国雪峯」の署名があるものです。雪峯は、明暦元年の使節団の写字官(書記)金義信(キムイシン)の号です。

朝鮮通信使の休憩所や宿泊所には文化交流を求める人々が訪れました。朝鮮通信使は、朝鮮の文化を日本に伝えるため、訪問者に誠実に対応しました。朝鮮からの使節団は、国どうしの外交というだけでなく、民間の交流も生んだのでした。江国寺の扁額の文字も、こうした民間交流が残した一例と考えられます。

4 望湖堂扁額(ぼうこどうへんがく)

時代 延享5年(1748)

鳥居本宿と番場宿(米原市)との間には摺針峠(すりはりとうげ。中山町)があり、そこにあった望湖堂は朝鮮通信使の休息場所になりました。摺針峠からの琵琶湖のながめは中山道随一の景色といわれ、朝鮮通信使の日記にも景色の良いところとして記録されました。

望湖堂には、延享5年(1748)の朝鮮通信使の写字官・金啓升(キムケソン)による文字が残されていました。「望湖堂」と大きく書かれた文字の左側に「朝鮮国真狂(シンガン)」(真狂は金啓升の号)と署名されたものです。

残念ながら望湖堂は平成3年(1991)の火災で焼けてしまい、この扁額も焼失しました。

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