特別史跡彦根城跡

更新日:2019年08月30日

 彦根城は彦根山(金亀山)を利用して築かれた平山城〔ひらやまじろ〕です。現在も、山頂には国宝の天守があり、その周囲を巡るように重要文化財の各櫓〔やぐら〕が残っており、麓には下屋敷をはじめ内堀や中堀などが当初の姿を留めています。この彦根城跡は、全国的に見ても保存状態の良好な城跡で、昭和31年7月19日、国の特別史跡に指定されました。なお、下屋敷は昭和26年6月9日に「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されています。

着見櫓から見た天守全容の写真

彦根城の築城

井伊直政 佐和山城に入る

 関ヶ原合戦後の論功行賞〔ろんこうこうしょう〕により、石田 三成〔いしだ みつなり〕の居城であった佐和山城を与えられたのは、のちに徳川四天王の一人に称〔たた〕えられる井伊 直政〔いい なおまさ〕でした。慶長6年(1601)正月、直政は上野国〔こうずけのくに〕高崎城(群馬県高崎市)より佐和山に入ります。ところが直政は、関ヶ原合戦で受けた鉄砲傷が悪化して翌年亡くなってしまいます。この時、嫡子〔ちゃくし〕直継〔なおつぐ〕はいまだ若年でした。直政より後事を託された家老木俣 守勝〔きまた もりかつ〕は、城の移築計画を徳川 家康にはかり、慶長9年(1604)7月1日、佐和山城の西方約2キロメートルの彦根山において、新たな築城工事が始まりました。

天下普請の前期工事

 築城には、およそ20年を要しました。前期工事は、本丸や鐘の丸などの城郭主要部が築かれました。幕府から6人の奉行〔ぶぎょう〕が派遣され、近隣諸国の大名に助役〔すけやく〕が命ぜられるなど、天下普請の様相を呈していました。豊臣恩顧〔おんこ〕の大名が多い西国への押えの拠点と意識され、完成が急がれたのです。そのため、普請に必要な材木や石材を周辺の古城や廃寺から集めました。天守そのものが大津城天守を移築したものと伝えています。
 こうして彦根城の築城が急ピッチで進む中、慶長9年7月には、徳川 秀忠〔とくがわ ひでただ〕が築城見舞いの使者を派遣しています。また、翌年9月には家康が築城の様子を見分〔けんぶん〕しています。重要な事業をまかされた、いまだ若い直継への配慮でしょうか。こうした家康・秀忠親子の支援もあって、築城は順調に進み、数年ののち城郭の主要部はほぼ完成しました。

大坂の陣後の後期工事

 慶長19年(1614)、豊臣勢力の一掃を策した大坂冬の陣が、また翌年には夏の陣が勃発します。彦根城の築城工事は一時的な中断をよぎなくされました。大坂の陣に出陣し活躍するのは、病弱の直継に代わった弟の直孝〔なおたか〕でした。
 大坂の陣後は、この直孝によって後期工事が再開されました。後期工事は彦根藩単独で実施され、城下町にいたる城郭の全容がほぼ完成しました。

彦根城の縄張り

御城内御絵図

 彦根城は南北に長い尾根を整地して、丸を連ねた連郭式〔れんかくしき〕の平山城です。南から「鐘の丸」「太鼓丸」「本丸」そして「西の丸」が直線的に連なっています。彦根城を縄張り、つまり城本来の軍事的な防衛施設として見ると、その発達した様子がわかります。

大堀切

 彦根城には、本丸にいたる前後に構築された大堀切〔おおほりぎり〕があります。大堀切は、彦根山の尾根を断ち切るように構築された大きな空掘です。彦根城の正面である大手門と表門からの敵に対しては、両者が合流する天秤櫓〔てんびんやぐら〕の外側に大きな堀切が築かれています。現在は橋が架かっていますが、この橋がなければ天秤櫓の高い石垣を登らないと本丸方面へ侵入できません。同様に搦め手〔からめて:裏手〕からの敵に対しては、西の丸の三重櫓の外に大堀切があって侵入を阻んでいます。

天秤櫓の外に築かれた大掘切

登り石垣

 彦根城には全国的にも珍しい登り石垣が、5か所に築かれています。登り石垣は、豊臣  秀吉が晩年に行った朝鮮侵略の際、朝鮮各地で日本軍が築いた「倭城〔わじょう〕」において顕著に見られるもので、高さ1~2メートルの石垣が山の斜面を登るように築かれています。斜面を移動する敵の動きを阻止する目的で築かれました。国内では彦根城の他には、洲本城(兵庫県)や松山城(愛媛県)などにしか見ることができません。彦根城では、この登り石垣の上にさらに瓦塀が築かれていたようです。
 彦根城は、このような大堀切や登り石垣が、櫓や門・堀などとも巧妙に連結して、たいへん発達した軍事的防衛施設となっています。

山の斜面を走る登り石垣

彦根の城下町

計画的に造られた城下町彦根

 彦根の城下町は、大規模な土木工事によって計画的に造られた町です。計画当初、城下は多くの渕や沼のある湿潤な土地が広がっていました。そのため、松原内湖に注いでいた芹川(善利川)を約2キロメートルにわたって付け替えて一帯の排水を良くし、琵琶湖に直流させました。また、現在の尾末町にあった尾末山を全山切り崩して、周辺の低地を埋め立てたと伝えています。こうした大土木工事により、城下町の計画的な地割が可能となったのです。

3重の堀による住み分け

 完成した彦根の城下町は、3重の堀によって4つに区画されていました。内堀の内側の第1郭は、天守を中心として各櫓に囲まれた丘陵部分と藩庁である表御殿〔おもてごてん:現在の彦根城博物館〕などで構成されています。内堀と中掘に囲まれた第2郭は、藩主の下屋敷である槻御殿〔けやきごてん:現在の玄宮楽々園〕と家老など千石以上の高禄の武士の邸宅が広がっていました。中掘と外堀の間の第3郭は内町〔うちまち〕と称し武家屋敷と町屋、また外堀の外の第4郭である外町〔とまち〕には商工人の住居と足軽の組屋敷がありました。内町・外町ともに武士と町人が合わせて居住していますが、居住地は明確に区分されており、魚屋町・桶屋町・職人町など職業による分化配置が見られました。 

彦根城下町割図イラスト

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